コラムです。
2026年9月24日、東プレが左右分割型キーボード「REALFORCE RS1 Keyboard」を正式発表しました。
REALFORCEが左右分割型へ参入したこと自体、個人的にはかなり大きなニュースだと思っています。
一方で、仕様や価格を見ているうちに、RS1そのものとは少し違う疑問が出てきました。
なぜ、キーボードブランドによって新製品を市場へ投入できる速度が、これほど違うのでしょうか。
REALFORCEやHHKBはそれぞれが歴史ある日本のキーボード製造部門を持つ企業であり、一つの基本設計や入力体験を長く育てるブランドとして知られています。
REALFORCEに関しては、「Rシリーズ」をアップデートしてきたことに加えて、2023年からはゲーミングシーンに特化した「GX1」シリーズをラインナップしています。
HHKBに関しては、運営のPFUがRICOH傘下となるなど経営上の変化はありましたが、長らくHHKBシリーズをアップデートしており、2023年には新しい入力体験を提案する「HHKB Studio」をリリースしました。
一方、Keychronのように、多数のレイアウトやスイッチ方式、接続方式を並行して展開するブランドもあります。
さらにエレコムまで見ていくと、「日本企業だから開発が遅い」「中国企業だから速い」という単純な説明も成立しません。
調べていくと、この違いには製品思想だけでなく、製造方法、費用に対する考え方、販売できる市場の広さ、設計資産の再利用、ローカライズ、販売チャネルなど、複数の要素が関係していることがわかりました。
今回はRS1をきっかけに、キーボードブランドの「製品の作り方」から、現在のキーボード市場を考えてみます。
この記事の位置づけ
本記事は、REALFORCE RS1の発表をきっかけとして、キーボードブランドごとの製造体制、商品開発、ローカライズ、販売方法について考察したコラムです。各社が公開している情報や、製造事業者が公開している一般的な製造方式の特徴をもとにしていますが、各製品の製造原価、金型費、生産予定数量、社内の商品企画判断など、公表されていない情報については断定していません。
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1. 新製品を作る「前提」がブランドごとに違う

最初に、今回取り上げるブランドを製造・商品展開という観点から整理してみます。
| ブランド(企業) | 公開情報から確認できる特徴 | 今回注目するポイント |
|---|---|---|
| REALFORCE 東プレ株式会社(日本) | 相模原工場で設計・製造・サポートまで一貫対応(トプレコ) | 国内一貫生産と品質・ブランド価値が結びついている |
| HHKB Professional 株式会社PFU(日本) | 基本コンセプトを長期間維持。米国向け公式資料では日本で設計・製造 (PFU) | 基本形を頻繁に変えるより、完成形を熟成する |
| HHKB Studio 株式会社PFU(日本) | Professionalとは異なる構造を採用し、IONE INNOVATION INC.が製造 (HHKB) | 同じブランドでも製品に応じて作り方を変えている |
| エレコム エレコム株式会社(日本) | 自社工場を持たないファブレス企業。国内外の提携工場から調達 (エレコム) | 自社設備に限定されない商品開発ができる |
| Keychron Keychron, Inc.(香港) | 40以上のキーボードモデルを展開 (Keychron) | 複数の製品プラットフォームを並行して横展開する |
この表を見るだけでも、「キーボードメーカー」と一括りにするには、かなり違う企業が同じ市場で競争していることが分かります。
順に見ていきます。
REALFORCEとHHKB Professionalは「自分たちの作り方」を持っている
まずは、日本で長年の実績のあるキーボードブランドである「REALFORCE」と「HHKB」についてみていきます。
東プレはREALFORCEについて、「日本品質にこだわり、設計から製造、サポートまで一貫して相模原市の工場で対応」と公式に説明しています。

1983年から静電容量無接点方式の入力機器を手掛け、2001年にREALFORCEを一般向けに発売したという歴史もあります。
これは単に「日本で作っている」という話ではなく、長年培ってきた製造技術、品質管理、サポートまで含めた仕組みそのものが、REALFORCEというブランドを構成する資産になっていると考えられます。
情報参照元:東プレ「PC周辺機器(REALFORCE)」
HHKBは、「Professional」と「Studio」というラインナップに大別されます。

中でもトラディショナルな「Professional」は基本形を大きく変えないことを明確な製品思想としています。
PFUは2019年のProfessionalシリーズ刷新時にも、「基本コンセプトは不変のまま進化」と説明していました。
合理的なキー配列とコンパクトサイズという基本コンセプトを20年以上維持しながら、Bluetooth、USB Type-C、キーマップ変更など、その時代に必要な機能を追加しています。
2026年には30周年記念として初の押下圧30gモデルも発売されましたが、PFU自身が「長年にわたり押下圧45gを守り続けてきた」と説明しています。
米国向けProfessionalシリーズの公式資料でも、原産国について「Designed & Manufactured in Japan」と記載されており、海外向け製品についても日本で製造されていることが確認できます。
情報参照元:PFU「高性能コンパクトキーボード HHKB ラインナップ一新」 / HHKB Professional公式Brochure
こうしたブランドにとっては、新しい製品を出すことだけが価値ではありません。
これまで確立してきた入力体験や品質を大きく崩さず、長期間磨き続けることそのものがブランド価値になっています。
一方で、HHKB Studioは若干毛色が異なるプロダクトです。
一方、HHKB StudioではProfessionalとは異なる入力方式や製造体制が採用されています。同じHHKBブランドでも、製品によって異なる「作り方」を選んでいる点は興味深いところです。
Kawamura2023年リリースのHHKB Studioですが、翌年には待望の「雪モデル」を販売するなど、その場限りのチャレンジではないことも好印象でした。
情報参照元:HHKB Studio FAQ「Who manufactures the HHKB Studio?」
エレコムは「日本企業=自社工場型」ではない

一方、エレコムは前述の二社とは大きく異なります。
エレコムは自社の強みを説明する公式ページで、創業時から現在まで自社工場を持たない「ファブレス企業」であることを明記しています。
品質、コスト、供給体制を総合的に検討したうえで国内外の提携工場から製品を調達し、調達力・開発力・販売力を包括したサプライチェーンによって「スピード開発」を行える部分を自社の強みとして捉えています。
また、2024年には深圳技術開発センターを稼働させました。
同センターでは技術・製品トレンドの情報収集を強化するとともに、開発の効率化による期間短縮を進めているようです。
情報参照元:エレコム「エレコムグループの強み」
Kawamura海外企業だから速い、国内企業だから遅い、ということではありません。
ただし、あくまでもこれは製造拠点を見ているだけであり、企業の意思決定の速度は加味していません。
これ以外の要素でも製品開発速度に大きな違いが出てくることが考えられます。
Keychronは「共通資産を使いながら、複数の製品を並行展開する」

REALFORCE、HHKB、エレコムと比較すると、Keychronの商品展開はかなり異なります。
Keychronは公式に、40を超えるキーボードモデルを展開していると説明しており、その数はほかのキーボードブランドと比較しても非常に多い。
現在のラインナップを見ると、Q、V、Kといった複数のシリーズに加え、磁気式、8K、有線・無線、ANSI・ISO・JISなど、多数の派生モデルが同時に存在しています。
情報参照元:Keychron「About Us」
Keychronは新製品が多いことに注目されやすいですが、本来注目すべきはそれだけのラインナップを揃えることができる「共通資産を使った製品展開」だと筆者は考えます。
75%レイアウトキーボードである「Keychron Q1」を例にしましょう。

筐体には6063アルミニウムのCNC加工を採用し、CNC加工、サンドブラスト、研磨、アルマイト処理などを組み合わせた製造工程を公式に公開しており、日本語配列版を含む同一シリーズを「共通のアルミケース」を用いて複数の地域向けレイアウトへ展開しています。(Keychron)


情報参照元:Keychron「How we create the Keychron Q1」/ Keychron Q1 Japan JIS Layout
つまりKeychronは、製品ごとにすべてを一から作るというより、一度作った筐体や基本設計、Firmware、設定環境などの資産を活用しながら、レイアウトや接続方式、スイッチ方式、新しい機能を横展開していくことが得意なブランドだと考えられます。
つまり、世界的にニーズの大きいANSIレイアウトベースで筐体外形を作成し、筐体や基本設計を共通化しながら、PCB、プレート、キーキャップ、Firmwareなどを地域向けに変更することで、一つの製品プラットフォームを複数市場へ展開しているのです。
これは、国内一貫生産を大きな価値としているREALFORCE、完成された基本形を長期間維持するHHKB Professional、日本市場を起点にファブレスで商品を開発するエレコムとも異なるアプローチと言えるでしょう。
もちろん、Keychronがすべての製品を同じ部品や工程で作っているという意味ではありません。
しかし、複数の製品シリーズを並行して展開し、同一シリーズをANSI、ISO、JISなどへ広げていく商品構成を見ると、「設計資産を再利用しながら商品バリエーションを増やす」ことが、同社の高い製品投入速度を支える一つの要素と見ることができます。
ここまでの4例を見ると、企業によって製造インフラが異なることがわかるでしょう。
固定設備をどこまで自社で持ち、外部の製造能力をどこまで柔軟に活用できるのか、また商品展開の国際比率をどのように考えるかも大きく異なることが予想されます。
そして、この違いを考えるうえで次に重要になるのが、筐体の製造手段です。
2. 製造方式は原価よりも「リスク許容度」が重要
キーボード筐体では、アルミニウム合金を削り出すCNC加工と、金型を使って樹脂を成形する射出成形が代表的な製造方法として挙げられます。
この二つは、見た目や素材感だけでなく、商品化までに必要な先行投資や、生産数量が増えた際のコスト変化、設計変更への対応力などが大きく異なります。
つまり、どちらを選ぶかという判断には、単なる製造原価だけではなく、どの程度の販売数量を見込んでいるのか、どこまで先に投資できるのか、売れなかった場合のリスクをどこまで許容できるのかという企業側の事業判断も含まれます。
Kawamuraあくまでも「製造目線」での話、というのは先に注釈しておきます。
CNCと射出成形では、得意とする生産数量が違う

まず、一般的な特徴を整理すると次のようになります。
| 比較項目 | CNC加工 | 射出成形 |
|---|---|---|
| 金型 | 原則として大型の量産金型は不要 | 金型製作が必要 |
| 初期投資 | 比較的小さく始めやすい | 大きくなりやすい |
| 1個あたりコスト | 高くなりやすい | 量産時に下げやすい |
| 得意な数量 | 小~中ロット | 中~大量生産 |
| 設計変更 | 比較的対応しやすい | 金型完成後は影響が大きい |
| 商品企画上の特徴 | 数量が読めない段階でも試しやすい | 数量が出れば強い |
製造サービス企業Xometryは、射出成形について、金型製作による大きな初期投資が必要になる一方、生産数量が増えるほど1個あたりのコストを下げやすいと説明しています。
一方、CNC加工では射出成形ほど大きなツーリング投資を必要とせず、小規模生産や設計変更を伴う製品で利用しやすいという特徴があります。
情報参照元:Xometry「CNC Machining vs. Plastic Injection Molding」
Protolabsも、製造数量を一つの目安として、1~10個程度では3Dプリント、10~200個程度ではCNC加工、200個を超えると射出成形を検討するという整理を示しています。
ただし、同社自身が「厳密なルールではない」と明記しており、材質、要求精度、形状の複雑さなどによって適した製造方法は変わります。
情報参照元:Protolabs「3D Printing vs CNC Machining vs Injection Moulding」
したがって、「200台を超えれば射出成形が必ず有利になる」「1,000台以下ならCNCの方が必ず安い」という意味ではありません。
実際の採算分岐点は、筐体サイズ、材質、加工精度、表面処理、金型構造、製造地域などによって大きく変わります。
また、アルミニウムをCNC加工する場合と、樹脂を射出成形する場合では、材料そのものも異なります。
ここで見たいのは、どちらの製造方式が優れているかではなく、製品を市場へ出すまでに、どの程度の固定費と数量リスクを負う必要があるのかという違いです。
射出成形では「売れる前」にまとまった投資が発生する
射出成形で特徴的なのが、金型への先行投資です。
Formlabsは、従来型の金属金型について、製作には通常4~8週間程度を要し、成形する部品の形状や複雑さによって製作費が2,000ドルから10万ドルを超える場合もあると説明しています。
情報参照元:Formlabs「3Dプリント×射出成形での小ロット量産総合ガイド」
もちろん、これはキーボード筐体の金型価格そのものを示した数字ではありません。
ここで重要なのは、射出成形では販売が始まる前に金型という固定費を負う必要があることです。
販売数量が多ければ、その費用を多くの製品へ分散できますが、数量が少なければ、少ない販売数の中で回収しなければなりません。
一方、CNC加工では大型の量産金型を先に用意する必要がありません。
1台あたりの加工費は高くなりやすいものの、需要規模がまだ読めない段階でも比較的小さな数量から生産できます。
そのため、CNCと射出成形の違いは、単なる単価差だけではないのです。
市場で受け入れられなかった場合に、どの程度の不利益が企業側に残るのかというリスクの違いも、製造方式を考えるうえでは重要と言えるでしょう。
同じ製造方法でも「どこで作るか」でコストは変わる
さらに、製造コストは加工方法だけでは決まりません。
同じCNC加工、同じ射出成形であっても、どの国・地域で、どのサプライチェーンを使って製造するかによってコスト構造は変わります。
JETROが2022年度に実施したアジア・オセアニア地域の日系企業調査では、日本の製造コストを100とした場合、中国の現地製造コストは81.4とされています。
もちろん、この数値はキーボード製造だけを対象としたものではなく、業種、製品、為替、人件費、調達条件などによって実際の差は変わります
ただ、少なくとも中国での現地生産が、日本国内生産より低いコスト水準になりやすい傾向を示す参考にはなります。
情報参照元:JETRO「2022 Survey on Business Conditions of Japanese Companies in Asia and Oceania」
Kawamuraこれまでは、なんとなく中国生産の方がコストが安いというイメージがありましたが、今回の調査でより具体的に把握できました。
加えて中国では、特に深圳・東莞を中心とする珠江デルタに、電子部品、PCB、CNC加工、金型、射出成形、表面処理、組立などを担う企業が集積しています。
情報参照元:World Bank「China 2030」
この地域では、一社がすべての工程を抱える必要はありません。
PCBは深圳、金型やCNC加工は東莞、表面処理や組立は近隣企業というように、複数の専門企業を組み合わせて製品を作ることができます。
また、香港を国際取引や物流の拠点としながら、深圳・東莞を中心とした中国本土の製造ネットワークを活用する企業もあります。
ここで重要なのは単純な人件費の安さではなく、試作から量産までに必要な企業が近距離に集まり、水平分業によって製品開発を高速に回せることです。
キーボードブランドが深圳やその周辺に多く集まる背景にも、こうした製造エコシステムがあると考えられます。
KawamuraKeychronは香港を拠点とするブランドですが、その製品開発・製造は深圳をはじめとする珠江デルタの製造エコシステムと強く結びついていると推察されます。

一方、日本国内で設計・製造を完結させる場合には、人件費や部材費だけでなく、国内工場や設備を維持するための固定費も必要です。
したがって、単純に「CNCの方が安い」「射出成形の方が安い」と比べるだけでは不十分です。
どの製造地域で、どのサプライチェーンを使って作るかまで含めて見ないと、実際の商品コストは見えてきません。
この違いは、現在のキーボード市場を考えるうえでも重要です。
中国の製造サプライチェーンを活用するブランドであれば、アルミニウムCNC筐体を比較的小さなロットで生産し、新しいレイアウトや機能を持つ製品を市場へ投入するという選択肢を取りやすくなります。
一方、国内に既存の生産設備を持つ企業では、製品ごとに最も安い外部製造方法を選ぶというより、自社が持つ設備や技術をどのように使うかという視点も商品企画に加わります。
企業によって異なる投資回収の考え方

ここまでの話だけを見ると、需要規模の分かりにくいニッチ製品では、CNC加工によって小ロットから市場へ出す方が合理的に見えます。
それでも、すべての企業が同じ方法を選ぶわけではありません。
その違いを考えるうえで重要なのが、製品投資をどれくらいの期間で回収するのかという考え方です。
短いサイクルで新製品を投入し、市場の反応を見ながら次の商品へ移るのであれば、先行投資を小さく抑えられる製造方法にメリットがあります。
一方、一つの製品を何年も販売するのであれば、最初に金型や設備へまとまった費用を投じても、長期間の累計販売数量によって回収するという考え方が成立します。
両者の違いを整理すると、次のようになります。
| 商品開発の考え方 | 小ロット・市場テスト型 | 長期販売・投資回収型 |
|---|---|---|
| 初期投資 | 小さく抑える | 大きくても長期間で回収 |
| 生産数量 | 少量から開始 | 累計販売数量で考える |
| 製品サイクル | 比較的短い | 比較的長い |
| 売れなかった場合 | 追加生産を止めやすい | 初期投資の回収が課題になる |
| 設計変更 | 比較的行いやすい | 金型・既存設備との整合が必要 |
| 得意な市場 | 新カテゴリー、需要が読みにくい市場 | 安定需要のある成熟製品 |
この視点で見ると、短い周期で多数の製品を展開するKeychronと、REALFORCEやHHKB Professionalのように一つの製品を長期間販売するブランドでは、合理的な製造方法そのものが異なる可能性があります。
重要なのは、どちらが優れているかではありません。
「小さく作って市場で確かめる」ことを前提にした事業と、「一度作った製品を長期間販売して投資を回収する」ことを前提にした事業では、商品開発におけるリスクの取り方が違うということです。
国内製造型の企業は「海外で作れば安くなる」だけでは動けない
では、長期間国内で製品を作ってきた企業も、製造コストを下げるために中国をはじめとした海外の製造企業へ委託すればよいのでしょうか。
実際には、それほど単純ではありません。
国内製造を長く続けてきた企業では、すでに自社の工場や製造設備、品質管理体制、技術者、調達網などが存在しています。
その状態から一部の商品だけを海外製造へ切り替えたとしても、国内設備の維持費が直ちになくなるわけではありません。
場合によっては、既存設備を維持しながら、新たに海外企業への委託費用や品質管理コストも発生することになります。
さらに、国外企業へ製造を委託する場合には、製造原価以外にも次のような課題が考えられます。
| 課題 | 想定される内容 |
|---|---|
| ブランド | 「国内製造」を価値としてきた場合、その説明を見直す必要がある |
| 品質管理 | 新しい製造先でも同じ品質基準を維持する仕組みが必要 |
| 技術・知財 | 図面、金型、製造条件、ノウハウなどを外部と共有する必要がある |
| 既存設備 | 国内工場や設備の固定費が残る可能性がある |
| 組織 | 開発、製造、品質保証、営業など複数部門の合意が必要になる |
| 投資判断 | 新しい製造体制へ移行するコストまで含めて採算を見る必要がある |
つまり、国内製造型の企業では、「海外で作れば製品単体の原価が下がる」という経済合理性だけで製造方式を変更できるわけではありません。
長期間積み上げてきた製造設備や人材、品質管理、ブランド価値まで含めると、製造拠点を変更すること自体が大きな事業判断になります。
この点は、最初から外部の製造企業を組み合わせることを前提としているブランドとの大きな違いです。
外部製造を前提とする企業では、製品ごとにCNC加工会社、PCBメーカー、組立工場などを選ぶことが通常の商品開発プロセスになります。
一方、自社製造を長く続けてきた企業にとって製造先を外部へ移すことは、単なる「発注先の変更」ではなく、これまで構築してきた事業の仕組みそのものを変更する判断になり得ます。
「作れること」と「商品にできること」は同じではない
ここまで考えると、成熟したブランドでは、新しい製品を技術的に作れることと、それを実際の商品として市場へ投入できることは、必ずしも同じではないことが見えてきます。
新しい商品を投入する際には、その製品の面白さだけでなく、市場規模や、販売見込み数量、投資回収期間、既存製品との関係、ブランドへの影響、既存設備の活用などを含めて判断する必要があります。
特に、すでに確立された製品と製造体制を持つ企業ほど、新しいカテゴリーへ参入するためには多くの条件を整理する必要があります。
反対に、外部の製造サプライチェーンを利用し、小ロットから試せる企業であれば、「まだ需要が分からない」という段階でも、実際の商品を市場へ出して反応を見ることができます。
この違いは、単なる企業規模や国籍の違いではありません。
その企業が、新しい製品をどれだけ小さな単位で試せる事業構造を持っているかという違いです。
過去にはHHKBでも、アルミ削り出しフレームを採用した「HHKB Professional HG」が完全オーダーメイド製品として販売されたことがあります。
情報参照元:PFU「HappyHacking Keyboard 輪島塗モデル 完全オーダーメイドで発売」
アルミ筐体そのものを作れないわけではありません。
しかし、その技術を持っていることと、現在の市場環境に合わせてアルミ筐体モデルを一定価格・一定数量で継続展開することは別の問題です。
この違いこそ、製造方法だけを比較していては見えにくい部分なのだと思います。
Kawamura限定生産で筐体部分だけを、中国で製造することは可能だとは思いますが、QC問題やユーザー自身が分解と組み込みを行うことを前提とするため、保証・サポート問題もありそうです。
製造側のリスクとユーザーが感じる高級感は一致しないという皮肉
ここまで製造側の視点から見てきましたが、市場側から見ると少し皮肉な構造もあります。
小ロット生産を前提としてCNCアルミ筐体を採用することは、メーカー側から見れば大規模な金型投資を避けながら市場へ投入できる、比較的リスクを抑えた選択です。
しかしユーザー側から見ると、アルミ削り出しの質感や重量感、表面処理、そして生産数の少なさが「高級」「限定」「希少」という価値として認識されやすくなります。
人気が集中すれば短期間で完売し、二次流通価格が上昇することもあります。
最近の言葉で言えば「転売」のターゲットにもなりやすいでしょう。
その結果、少量しか作られていないこと自体が、さらに商品の価値を高く見せる方向に働く場合があります。
一方、射出成形による樹脂筐体は、メーカー側では金型製作という大きな先行投資を伴い、一定以上の販売数量を見込んで初めて成立する製造方法です。
つまり、ブランド側から見れば「長期間売る前提で勝負をかけた商品」である場合があります。
それでもユーザー側からは、素材だけを見て「プラスチックだから高級感が低い」と評価されることがあります。
このように、視点を変えると「製造側と市場側で価値の見え方が逆転する」ケースがあるのです。
製造側の投資リスクが高い製品ほど、ユーザーから高級に見えるとは限りません。
むしろ、小ロットで作られたCNCアルミ製品の方が、希少性や所有感まで含めて高い価値を感じられる場合があります。
このズレは、現在のカスタムキーボード市場を考えるうえで非常に重要なポイントだと筆者は考えています。
メーカーにとっては単に「安く作れる方法」を選ぶだけではなく、どの製造方式が、どの価格帯・どのブランド体験と相性がよいのかまで設計する必要があります。
製造方式の違いは「新しい市場を試せる速度」の差
製造方法・事業モデルの違いは「新しい市場を試せる速度」に大きな違いをもたらします。
中国の外部サプライチェーンを利用し、CNC加工による小ロット生産を使いやすい企業であれば、需要規模が分からない新しいカテゴリーでも、比較的小さな投資から実際の市場へ投入可能で、反応が良ければ追加生産する、弱ければ次へ進むという判断もしやすくなります。
一方、既存の製造設備やブランド体系を長期間維持しながら投資を回収する企業では、新商品を出すたびに、その商品を既存事業の中でどのように位置づけるのかまで考える必要があります。
つまり、製造方式や事業モデルの違いは、単純な製造原価の差だけではなく、「まだ売れるか分からない新しい入力体験を、どれだけ小さなリスクで市場へ試せるか」という差にもつながります。
左右分割、40%、カラムスタッガード、ポインティングデバイス統合など、新しいフォームファクターが次々と登場している現在のキーボード市場では、この「試せる速度」そのものが以前より重要になっているのではないでしょうか。
そして、仮に製造リスクを小さくできたとしても、次に問われるのは一つの製品をどれだけ広い市場へ販売できるかです。
ここからは、ANSIを起点としたグローバル展開と、日本語配列へのローカライズについて見ていきます。
3. 「世界で売れるANSI」ベースのキーボードは日本語配列で制約が大きい
Keychronは、ANSIをカスタムメカニカルキーボードで最も広く使われるレイアウトとして説明しています。
また、ISOは欧州市場、JISは日本市場向けというように、地域によって異なる物理レイアウトを展開しています。(Keychron)
情報参照元:Keychron「ISO / ANSI / JIS Keycaps」
よって、ANSIを基本として製品を作れば、一つの製品を特定の国だけに限定せず、比較的広い市場へ販売できます。
さらに同じシリーズにISOやJISを追加できれば、筐体や基本設計に投じた開発費を、複数市場で回収することができます。
Keychron Q1は、その構造が分かりやすい例です。
| Keychron Q1 Version 2 | ANSI版 | Japan JIS版 |
|---|---|---|
| 幅 | 145mm | 145mm |
| 長さ | 327.5mm | 327.5mm |
| 筐体 | Full CNC machined aluminum | Full CNC machined aluminum |
| 物理配列 | ANSI | JIS |
| 地域別Firmware / JSON | あり | あり |
ANSI版とJapan JIS版はいずれも幅145mm、長さ327.5mmで、フルCNCアルミニウム筐体を採用しています。
内部仕様まで完全に同じではなく、たとえば公式スペックではプレート素材にも違いがありますが、少なくとも外形と筐体という大きな設計資産は共通化されています。(Keychron)
さらにKeychronは、Qシリーズをはじめとする複数製品について、ANSI、ISO、JISそれぞれのFirmwareやJSONファイルを公開しています。(Keychron)
前章でも触れたように、外郭や製品プラットフォームといった大きな資産を可能な範囲で共通化しながら、PCB、プレート、キーキャップ、Firmware、キーマップなど、地域ごとに必要な部分を変更することでローカライズできます。
これが成立すれば、日本向けモデルのためだけに筐体開発費を回収する必要はありません。
世界向けに作ったプラットフォームの一部を変更して日本市場へ展開できること自体が、グローバルブランドの大きな強みです。

日本語配列はANSIよりもキー数が多い
ただし、日本語配列のローカライズは単純ではありません。
Keychron自身も、ANSI、ISO、JISでは物理キー構造が異なり、キーキャップを交換するだけではレイアウトそのものを変更できないと説明しています。
日本語配列はANSIよりキー数が多く、さらには日本語入力用の独自キーが存在します。(Keychron)
Greenkeysでも、日本語配列キーボードを設計する際の注意点を継続的に検証してきました。
たとえば一般的な75%英語配列では16u程度の横幅に収めやすい一方、日本語配列のZ行には英語配列にはない追加キー(\_)が存在します。
この差を同じ外形へ収めようとすると、右Shiftやカーソルキー周辺を含めた調整が必要になります。
参照:Greenkeys「日本語配列キーボード/キーキャップ設計のための総合ガイド」
ここが、グローバル製品の日本語配列ローカライズで難しい部分です。
外郭を変えれば自由度は上がりますが、日本だけのために新しい筐体や外装部品を用意すれば共通化のメリットが小さくなります。
逆に外郭を共通化すれば、今度は限られたスペースの中へ日本語配列をどう収めるかという問題が生まれます。
ローカライズとは、単なる翻訳やキー印字の変更ではなく、グローバル共通設計と地域ユーザーの使い方をどこで折り合わせるかという設計作業でもあります。
それぞれの強みと弱み
この違いを整理すると、次のようになります。
| グローバル共通設計型 | 日本市場を起点にした設計 | |
|---|---|---|
| 基本思想 | 一つのプラットフォームを複数市場へ展開 | 日本のユーザーを起点に仕様を設計 |
| 強み | 固定費をより広い市場へ分散しやすい | 日本語入力や国内利用環境へ深く合わせやすい |
| JIS対応 | 共通外形の中で配列を調整する必要がある | 最初からJISに必要な物理配置を考えられる |
| 製品展開 | ANSI→ISO→JISなど横展開しやすい | 国内ユーザーのニーズを優先しやすい |
| 主な課題 | 共通設計がローカライズ上の制約になる | グローバルな販売数量を確保しにくい場合がある |
Keychron型の商品開発は、グローバルで販売数量を積み上げやすいという点で強力です。
一方、エレコムのように日本市場のニーズを直接見ながら商品企画を行える企業には、グローバル共通設計を前提とする海外ブランドに対して、日本市場を起点に設計できる企業が持つ強みと言えます。
ここにも「どちらが優れている」という答えはありません。
グローバルでスケールしやすい設計と、地域市場へ深く最適化された設計では、得意とすることが違うと言えそうです。
4. 日本でキーボードを売る際のハードル
以前Greenkeysでは、日本のキーボード市場について「長く使える道具」と「買い足したくなる体験」という視点から考察しました。
REALFORCE、HHKB、FILCOといった長く使える製品が大きな価値を持つ一方、メカニカルキーボードやカスタムキーボードに関心の高いユーザー層では、現在使っている製品が壊れていなくても、異なるレイアウトや打鍵感、新しい機能を理由にキーボードを買い足す動きが見られるようになってきているとGreenkeysでは見ています。
参照:Greenkeys「『長く使える道具』と『買い足したくなる体験』―日本でのキーボードの売れ方はどう変わったのか」
GreenEchoes Studioでも、「すでに良いキーボードを持っている人が、なぜもう一台欲しくなるのか」という購入理由を整理することの重要性を、法人向け支援の考え方として提示しています。
参照:GreenEchoes Studio「キーボードブランド向け法人支援を再構築」
これらは、「キーボードを買う側」からの視点の話です。
これを「作る側」から見ると、「興味を持つ商品を作る」だけでなく、どのように日本で流通させるかという部分が大きな課題として見えてきます。
この章では、日本で無線機器を販売する際に対応が必要な「技適認証」などの話題については触れていません。
日本で売るには「製品」だけでなく「販売環境」もローカライズする必要がある
海外ブランドの商品を日本で販売する場合、必要なのは日本語配列や日本語マニュアルだけではありません。
販売ページ、決済、国内配送、保証、修理、問い合わせ対応まで含めて、日本のユーザーが安心して購入できる環境を整える必要があります。
Keychronの場合、この役割を担っているのがコペックジャパンです。
コペックジャパンはKeychronの日本正規輸入代理店として、国内向け製品の展開とサポートを行っていることを公式に明記しています。
現在のKeychron Japan公式ストアの販売事業者も株式会社コペックジャパンです。
情報参照元:KOPEK JAPAN「Keychron 日本正規輸入代理店」 / Keychron Japan「特定商取引法に基づく表示」
一方、Keychron本国のグローバルストアも日本への発送に対応しています。
公式Shipping Policyでは、日本向け配送にも対応しており、配送先情報は英語で記載する必要があると案内されています。(keychron.com)
つまりKeychronの場合、本国直販を完全に閉じるのではなく、グローバルECと日本国内の販売網を併存させていることになります。
そのうえでKeychron公式の販売店一覧では、日本の正規販売先としてSuper KopekやKeychron Japanが案内されています。(keychron.com)
この構造を見ると、コペックジャパンが担っているのは単なる輸入だけではなく、Keychron製品を、日本のユーザーが国内製品に近い感覚で購入できる状態へ変換する役割を担っているとみても差し支えないでしょう。
Nape ProやOrca echoでは日本市場の知見そのものが製品開発へ活かされている
さらに興味深いのが、Keychron、コペックジャパン、メディアジーンによる共同開発です。
ギズモード・ジャパンのオンラインストア「GIZMART」で展開されたNape Proは、ギズモード・ジャパン編集部員による個人開発プロジェクトを起点に、Keychronとの協業によって製品化されたトラックボールデバイスです。
2026年4月時点で、2回のクラウドファンディングを合わせた累計購入総額は4億円を超えました。(mediagene.co.jp)
参照:メディアジーン「Keychron×ギズモード・ジャパン共同開発『Nape Pro』累計購入総額4億円突破」
その後、2026年5月にはGIZMART、Keychron、コペックジャパンの3社が戦略的パートナーとして連携を進めています。
情報参照元:メディアジーン「ギズマート、Keychron・コペックジャパンと戦略的パートナーとして連携」
Orca echoも、この連携の中から生まれた製品です。

KeychronとGIZMARTの共同開発による左右分割キーボードとして2026年6月に発表され、日本先行でクラウドファンディングを開始し、支援総額は7億円を突破するなど、大きな反響を集めました。
この関係を整理しましょう。
| 役割 | 担う主体 |
|---|---|
| 日本市場のニーズ把握・ユーザーとの接点 | GIZMART/ギズモード・ジャパン |
| 製品設計・製造 | Keychron |
| 国内流通・販売・サポート | コペックジャパン |
| 先行販売・市場反応の確認 | GIZMART/クラウドファンディング |
この形であれば、海外ブランド自身が日本市場のすべてを理解する必要はありません。
日本市場を知る企業、日本で売る企業と、実際に製品を作れる企業がそれぞれの強みを持ち寄ることで、商品化から販売までを分業しているのです。
本国直販を維持して代理店と競合するという課題
ただし、日本に販売代理店を置けばすべて解決するわけではありません。
現在、多くの海外ブランドは自社ECを持ち、世界中へ直接販売できるDTC型の販売モデルを採用しています。
メーカー側から見れば、本国ECを維持するメリットは大きいでしょう。
販売価格を自社で管理できるほか、代理店を介さずユーザーへ直接販売でき、新製品を世界へ同時展開しやすくなります。
一方、日本側に販売代理店を置いた状態で本国ECからも直接販売すると、国内代理店とメーカー直販の間で競合が生じる可能性があります。
国内代理店には、輸入、国内在庫、物流、販売ページ、日本語対応、保証、修理、マーケティングなど、日本市場で商品を販売するためのコストが発生します。
対して本国ECでは、日本の販売代理店と同じコスト構造を持たないため、キャンペーンや値引きによって国内価格より安く販売できる場合があります。
結果として、日本市場を育てるために投資する代理店と、本国側の直販チャネルが同じ顧客を取り合うという構造が生まれることがあります。
ただし、理由は後述しますが、本国ECサイトだけでの販売であれば、販売代理店の競合にはなりにくいと筆者は捉えています。
一方、国内ユーザーが普段利用するECモールへ本国ブランド自身が出店した場合には、本国直販と国内代理店の顧客層が重なりやすくなり、チャネル競合がより顕在化する可能性があります。
ここは、販売代理店を置く海外ブランドが日本市場で長期的に成長するうえで、かなり重要な問題だと思います。
単に「代理店があるかどうか」ではなく、本国直販と国内販売をどのように共存させるかまで含めて、日本市場向けの販売戦略を設計する必要があるからです。
「日本へ発送できる」と「日本で売れる」は同じではない
もう一つ考えておきたいのが、購入するユーザー側の心理です。
海外ECから商品を購入すること自体は以前より簡単になっています。
ただし、海外ECで購入する場合には、英語での住所入力、海外配送、関税や税金、不具合時の問い合わせ、返品や保証など、国内ECとは異なる手続きが発生する可能性があります。
KeychronのShipping Policyでも、日本向け注文では住所や氏名を英語で記載する必要があり、配送先によってはVATや輸入税が発生する可能性について説明されています。(keychron.com)
ここで、「日本人は海外購入を嫌う」と一括りにするのは適切ではないと思います。
一方で、国内ECと海外ECでは、購入者が事前に確認しなければならない情報量や、不具合発生時の心理的負担が異なります。
筆者は、この差を「購入時の信頼コスト」と考えています。
商品の価格そのものが同じでも、「日本語で買える」「国内拠点から数日で届く」「何かあれば日本語で問い合わせできる」「国内で保証や修理を受けられる」という条件がそろえば、購入のハードルは下がります。
つまり、海外から日本へ発送できることと、日本のユーザーが安心して購入できることは同じではありません。
この点まで含めると、日本市場におけるローカライズは、JIS配列や日本語表示だけの話ではなくなります。
販売、発送、サポートも含む一体として整えることが、海外ブランドが日本で継続的に売るためのローカライズだと考えられます。
日本での販売は「製造」と「販売」の両輪が必要
ここまでの話を整理すると、日本市場へ新しいキーボードを投入するためには、「良い製品を作れること」だけでは十分ではないことがわかります。
| 段階 | 必要になること |
|---|---|
| 日本市場のニーズを把握する | メディア、ユーザーコミュニティ、市場調査 |
| 商品へ変える | 設計、試作、製造 |
| 日本向けに適合させる | 配列、Firmware、キーキャップ、表示など |
| 日本で販売する | 国内在庫、物流、EC、販売店 |
| 購入後を支える | 日本語サポート、保証、修理 |
Keychron、コペックジャパン、GIZMARTの連携を見ると、これらを一社ですべて抱えるのではなく、それぞれ得意な企業が分担する形でも成立することが分かります。
これは、第2章で扱った製造の水平分業とも少し似ています。
製造では、PCB、CNC、金型、表面処理などを複数企業で分業することで、商品化の速度を高めることができます。
販売でも、日本市場の理解、製品開発、国内流通、メディア、サポートを分業することで、海外ブランドがすべてを自前で構築するより速く市場へ入れる可能性があります。
つまり、キーボードブランドの競争力を考える際には、「作る速度」だけでなく、「その商品を地域市場へ接続する速度」まで見る必要があるということです。
第3章で見たように、グローバル共通製品を日本語配列へ変えることが「製品のローカライズ」だとすれば、この章で扱った販売、流通、保証、サポートは、「日本市場向けのローカライズ」と呼べるのかもしれません。
そして、この二つがつながって初めて、海外で作られた新しい入力体験が、日本のユーザーに届くのだと思います。
5. 成熟したブランドに必要なのは「完成形を守りながら、新しい入力体験を試す仕組み」
ここまで見てきたように、製造方式、設計資産の再利用、販売できる市場の広さ、ローカライズ、販売チャネルまで含めると、キーボードブランドによって新しい製品を市場へ投入できる速度にはかなり大きな差があります。
だからといって、REALFORCEやHHKBのように国内で長くキーボードを作ってきたブランドが、そのまま不利だとは言い切れません。
長期間積み上げてきた打鍵感や配列思想、品質への信頼、国内での販売・サポート体制は、新興ブランドが短期間で作れるものではなく、それ自体に価値があるためです。
一方で、現在のキーボード市場では、そうした「完成度の高い一台」を持っていることとは別に、新しい入力体験をどれだけ早く商品として提示できるかという競争も生まれています。
キーボードの役割そのものが変わり始めている
これまでキーボードの中心的な役割は、文字を正確かつ効率よく入力することでした。
しかし、生成AIを使うことが一般的になり、今後Vibe Codingのような使い方がさらに広がれば、キーボードに求められる役割そのものが変わっていく可能性があります。
長い文章やコードをすべて自分の指で入力するのではなく、AIへ意図を伝え、指示を出し、生成された内容を確認し、必要に応じて修正する。
そうした使い方が増えれば、キーボードは単なる「文字入力装置」ではなく、人間の意思決定や指示をコンピューターへ伝えるためのインターフェースに近づいていくかもしれません。
これは、キーボードに必要なキー数や配列そのものを見直すきっかけにもなります。
従来のフルサイズキーボードは、「すべての文字や記号を直接入力できること」に大きな価値がありました。
しかし、入力の一部をAIやソフトウェアが補完するようになれば、物理キーとしてすべてを常時並べておく必要性は相対的に小さくなる可能性があります。
そのとき、キーボードは今よりもっと自由な形を取れるようになるのではないでしょうか。
「入力できること」以外の価値が大きくなっている
実際、現在のキーボード市場では、すでに「文字を入力できる」という基本機能以外の価値が大きくなっています。
たとえばスモールキーボードでは、キー数を減らすこと自体が欠点ではなく、「小さくて持ち運びやすい」「机を広く使える」という価値として受け入れられています。
左右分割やカラムスタッガードでは、一般的なキーボードとは異なる学習コストが発生しますが、その代わりにホームポジションを維持しやすい、手首や腕を自然な位置に置きやすいといった、人間工学的な価値があります。
さらに、アルミニウム筐体、独自のカラーリング、キーキャップ、特殊なレイアウトなど、「見た目が好き」「所有したい」という感覚そのものも、現在のキーボード選びでは無視できない要素になっています。
現在キーボードに求められている価値
| 価値 | 具体例 |
|---|---|
| 入力効率 | タイピング速度、ショートカット、レイヤー |
| 携帯性 | 小型化、軽量化、ロープロファイル |
| エルゴノミクス | 左右分割、カラムスタッガード、角度調整 |
| ポインティング統合 | トラックボール、タッチパッド、ポインティングスティック |
| ゲーム性能 | 磁気式、Rapid Trigger、8Kポーリング |
| デザイン | カラー、素材、筐体造形、キーキャップ |
| 所有体験 | 限定モデル、カスタマイズ、コレクション性 |
つまり、キーボードの価値は「どれだけ文字を入力しやすいか」だけでは測れなくなっています。
入力装置であると同時に、仕事道具であり、身体に合わせる道具であり、趣味性の高いプロダクトでもある。
この多面的な価値こそが、現在のキーボード市場を面白くしているファクターの一つなのだと強く思います。
スイッチングコストが下がれば、特殊な配列も選択肢になりやすい
これまで、カラムスタッガードや40%以下のスモールキーボードは、一部のユーザーに強く支持される一方で、一般ユーザーにとってはかなり高いハードルがありました。
最大の理由の一つは、既存のキーボードから移行する際のスイッチングコストです。
特殊な入力環境を使いこなすためには、ある程度の知識と時間が必要でした。
しかし、AIを使ってキーマップや設定を作ったり、「この操作をこのキーに割り当てたい」と自然言語で相談したりできるようになれば、その学習コストは今後下がる可能性があります。
そう考えると、これまで「使いこなすのが難しい」と見られていたカラムスタッガードやスモールキーボードが、より広いユーザーにとって現実的な選択肢になる可能性があります。
Orca echoが注目された理由も「新しい入力体験」にある
その象徴的な例の一つが、Keychron Orca echoです。
Orca echoは、左右分割のカラムスタッガード配列にトラックボールなどのポインティング機能を統合した製品です。
一般的なキーボードから見れば、かなり特殊な構成です。
それでも大きな注目を集めたのは、従来とは違う入力体験そのものを商品として提示したことが大きいのだと思います。
参照:Greenkeys「Keychron Orca echo関連記事」
以前であれば、カラムスタッガード配列という時点で、多くのユーザーが「自分には難しそう」と感じたかもしれません。
しかし現在は、エルゴノミクス、スモールキーボード、トラックボール統合といった価値を重ねることで、「新しいものだから試してみたい」という購入理由が成立するようになっています。
これは、キーボードが単なる耐久財ではなく、新しい体験を試すためのプロダクトへ広がっていることを示しているように見えます。
キーボードはもっと「ファッショナブル」になれる
ここでいう「ファッショナブル」とは、単に見た目がおしゃれという意味ではありません。
ファッションには、「今、このスタイルを選びたい」という感覚があります。
機能的にはまだ使える服を持っていても、違う色、形、素材、ブランドを選ぶことがあります。
キーボードも、それに近い商品になりつつあると感じています。
今使っているキーボードが壊れていなくても、「次のキーボードを買う理由」が、昨今では見出せるようになってきました。
- 左右分割を使ってみたい
- コンパクトに持ち歩けるキーボードが欲しい
- 磁気式の感触を試したい
- アルミ筐体のどっしりとしたキーボードが欲しい
- トラックボール付きが欲しい
こうした購買行動が成立するのであれば、キーボードブランドにとって重要なのは、一つの完成形を作ることだけではありません。
その時代にユーザーが試したくなる新しい価値を、どれだけ継続して提示できるかも重要になります。
成熟ブランドに必要なのは「完成形とは別の実験レーン」
こういった点では、日本国内の成熟ブランドは難しい立場にあります。
長年維持してきた製品思想や打鍵感を大きく変えれば、既存ユーザーから見たブランド価値を損なう可能性があります。
一方で、完成形を守ることだけに集中すれば、新しい入力体験が市場に生まれたとき、そのカテゴリーへの参入が遅れる可能性があります。
だからこそ、重要になるのが「既存の完成形を守りながら、新しい入力体験を試せる別のレーン」を作ることだと思います。
HHKB Studioは、その可能性を示す分かりやすい例です。
Professionalシリーズでは、HHKBが約30年間積み上げてきた基本コンセプトを維持する。
一方Studioでは、MX互換メカニカルスイッチ、ポインティングスティック、ジェスチャーパッドを採用し、Professionalとは異なる製造体制まで選択しました。
つまりPFUはすでに、「変えないHHKB」と「新しい入力体験を試すHHKB」を別々の製品ラインで展開しています。
情報参照元:HHKB Studio FAQ
今後、左右分割やさらに異なるフォームファクターを試す場合でも、必ずしもProfessionalの基本形を変更する必要はありません。
成熟したブランドに必要なのは、自らの完成形を捨てることではなく、完成形を守ったまま次の可能性を試せる仕組みを持つことなのではないでしょうか。
新しい入力体験を「商品にできる企業」の強さ
今後のキーボード市場では、単純な製品性能だけでは説明できない競争が進んでいくように思います。
しかも、トレンドも大きく変わり、それに伴い「そのタイミングで売れるヒット商品」も変わる。
つまり、新しいニーズをいかに早く製品化できるかがキーになりそうです。
ただし、それだけではありません。
それを実現するための製造方法だけではなく、日本国内で売るのであれば相応の販売窓口とサポート体制まで構築する必要があります。
こうした仕組みを一社だけで賄うのは非常に難しい。
だからこそ、KeychronがコペックジャパンとGIZMARTと組んだような「協業」も視野にいれるべきなのだと思います。
一方で、キーボードの役割そのものも変わりつつあります。
文字を大量に入力するだけの道具ではなく、AIへ指示を出し、意思を伝え、作業を切り替え、ポインターを操作し、自分の身体や働き方に合わせるためのインターフェースへ広がっていく可能性があります。
そうなれば、キーボードは今よりもっと自由な形になれるはずです。
これからの日本のキーボード市場では、「正しいキーボードの形」を競うのではなく、「どんな入力体験を提供するか」を競う時代へ、少しずつ変わっていくのかもしれません。
そのときブランドに求められるのは、これまで積み上げてきた完成形を捨てることではなく、守るべきものを守りながら、新しい可能性を試し続けられること。
それが、成熟したキーボードブランドが次の時代でも強みを維持するための一つの条件になるのではないかと考えています。
本稿についてのお断り
本稿は、REALFORCE RS1の発表をきっかけとして、各社が公開している公式情報、製造事業者が公開している一般的な製造方式に関する資料、およびGreenkeysでこれまで行ってきた市場・配列検証をもとに、筆者がキーボード市場について考察したコラムです。
射出成形とCNC加工のコスト構造や適正数量は、材質、形状、加工精度、表面処理、金型構造、生産地域、生産設備などによって大きく変化します。本文で紹介したXometry、Protolabs、Formlabsの資料は、それぞれの製造方式が持つ一般的な特徴を理解するための参考資料であり、個別製品の製造原価や採算分岐点を推定するためのものではありません。
また、各社の製造原価、金型費、生産予定数量、取引条件、社内の商品企画判断など、公表されていない事項については断定していません。
本稿はあくまでも、これまでのGreenEchoes Studioとしての知見と調査をもとにしたコラムであり、各企業の内部情報については一切含まれておりません。
Greenkeysを運営するGreenEchoes Studioでは、キーボード・入力デバイス分野における製品監修、日本市場向けローカライズ、市場調査、ローンチ支援などのご相談を受け付けています。
今回の記事で扱った製造・ローカライズ・販売構造について、法人向けの視点から整理した記事も公開しています。
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- 参照・引用元:各章を参照
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